こんばんは。
今日の写真は蓮の花です。
こんな可憐な花の下に蓮根(レンコン)があると思うと不思議な気持ちになります。
(蓮根は、蓮の根と書くものの、実際は根ではなく、茎(地下茎)なのだそう。)
ところで、今日は邪視とそれを避けるための表現について紹介します。
そもそも邪視とは
ご存じの方も多いと思いますが、今回は2番目の意味の「邪視」を扱います。
大辞林 第三版の解説
じゃし【邪視】
① 物を正面から見ないこと。また、物事を正しく見ないこと。よこめ。
② 〔evil eye〕 人や物に災厄をおこす神秘的な力をもつ目。また、そのはたらきに対する信仰。
زهر چشم (目の毒)という表現
以前記事で紹介したオンラインのダリー語ダリー語辞書 قاموس کبیر افغانستان を使って調べていたら、زهر چشم (zahr-e chashem) という表現を見つけました。
直訳は「目の毒」という意味です。
その解説が興味深かったので紹介します。
同辞書のزهر چشمの項目によると、以下の2通りの表現で使うそうです。
1. 徹夜して疲れ果てた人に使う表現。
「あなたの目の毒をなくすために眠りなさい
« رفته بخواب تا زهر چشمت بشکند »」と言います。つまり、「眼精疲労を癒やして、元気になってね」という意味で使われます。
2. 迷信的な表現としても用いられます。財産、物を持っている人、外見の良い人、子どもなどが褒められて、その後で事故や災難などに見舞われた場合に使います。
つまり、ある人が「目の毒を滴らせた«زهر چشمش را چکاند»」眼差しで人や物を褒めて(欲しがって)、相手や物が後々損害を受けた場合に使います。
(引用者による要訳)
1の場合のزهر چشم(目の毒)は、日本語の「疲れ目」みたいな表現でしょうか。
強めの表現だからか、割とすぐに覚えられました。
眼精疲労は目の毒なんですね。確かに。納得です。
2が冒頭で説明した「邪視」にあたる表現ですね。
「邪視に当てられた、やられた」という表現は、
او نظر شد.ا (oo nazar shod.)
などと言うそうです。
私が知らないだけかもしれませんが、日本ではあまり邪視の考え方を聞かないような気がします。むしろ「言霊」の方が信じられているような印象です。
迷信的だと思われるかもしれませんが、私は言霊を信じています。
実際に起きて欲しくないことを話さなければならないとき、その発言の前か後に必ず「取り消すけど・・・・・・」と言うようにしています。(時には心の中でこっそりと。)
(強い言葉を言ったとき、相手にショックを与えるのはもちろんのこと、自分も結構ショックではありませんか? そういう衝撃みたいなものを和らげたいのかもしれません。)
ですので、下で紹介するダリー語の表現にも共感します。
邪視を避けるためのダリー語の表現
そんな邪視を避けるために、アフガニスタンで人や物を褒める前に使う表現はこちらです。
از نظر بد دور باشد.ا (az nazar-e bad door baashed.)
邪視が離れますように。
نظر نشد.ا (nazar na-shod.)
邪視が消えますように。
چشم بد دور.ا (chashm-e bad door.)
邪視を遠ざけますように。(邪視を追い払いますように。)
事例として写真も取り上げられれば良いのですが、著作権の関係で難しそうなので、ご興味ある方は、"چشم بد دور" などで画像検索すると関連の写真がヒットすると思います。
普段から使えそうな表現ですね。私も使ってみたいと思います。
それでは。