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アフガニスタン、ダリー語について

我がこととして考える

pergola

HeidelbergerinによるPixabayからの画像
2019年12月9日
最終更新
 

(一部伝わりにくいと思う箇所がありましたので、後半を更新しました。)

こんばんは。

今はフリーランスで翻訳の仕事をしていますが、勤めていた時に職場の同僚からDVDを借りたことがありました。

「~さんなら、きっと興味を持つと思うよ。アフガニスタンで農業用水路を引く活動をしているお医者さんの話だから」と。それがペシャワール会医師の中村哲先生を知ったきっかけでした。

私は中村先生と直接面識があるわけでもなく、メディアを通じて活動を知るだけでした。連日のアフガニスタンでの報道を通じて、どれほどアフガニスタンの方々から信頼され、尊敬される方だったのかを改めて目の当たりにしました。

ブログの記事で触れることすら、おこがましいかもしれませんが、人として生き方、在り方を尊敬するので、ここからは個人的な思いを書きます。


たとえば、目の前に溺れている人がいたら、皆さんならどうしますか。
飛び込んで助けに行く人もいれば、浮き輪やロープを探しに行く人、消防や警察に連絡する人、さまざまだと思います。

同じように、他人の痛みを我がこととして考えられる人は日本にも世界にもいると思いますが、実際に現地に行って活動されたのが中村先生だったのだと思います。

  
13世紀ペルシアの詩人サアディーに、こんな有名な詩があります。
アフガニスタンの教科書にも載っていました。 

بنی آدم اعضای یکدیگراند              که در آفرینش ز یک گوهرند

چو عضوی به درد آورد روزگار     دگر عضوها را نماند قرار

تو کز محنت دیگران بی غمی         نشاید که نامت نهند آدمی

 
人類は互いにひとつの身体の部位である
ひとつの宝から創造されている

運命によって ひとつの部位が苦しむ時
別の部位が落ち着いていられるわけがない

もしあなたが他者の苦しみを感じないのなら
もはや人間と呼ぶに値しない

 (出典:アフガニスタンの4年生のダリー語教科書88ページから抜粋。サアディー『薔薇園』、和訳は引用者。)


アフガニスタンでこういう詩を学んでいる人たちだからこそ、中村先生への尊敬も非常に篤かったのではないでしょうか。

時々引用しているTOLOニュースでも沢山の記事になっていましたし、地元の人々からの惜しむ声が多く取り上げられていました。


人として尊敬する部分というのは、実際に行動されている姿勢です。
もちろん、皆が皆現地には行けませんし、基本的に渡航禁止になっていることは承知していますが、それぞれの得意分野によって貢献する方法も活動する場所も多様なのだと思います。

相手の痛みを我がこととして考えるのは、簡単なようで難しい、と思います。
特にそれが本当に相手を喜ばせているのか、自分の気持ちを押しつけているだけではないかと思ってしまうこともあるからです。


ですから、中村先生がアフガニスタンの方々からあれほど尊敬され、慕われていたということ自体が、活動を通じてアフガニスタンの方々に喜んでもらっていた何よりの証なのだと思いました。
本当に偉大な方を私たちはなくしてしまったのだと。
悲しいという言葉だけでは足りないほど、ただただ呆然としています。

最後に、中村哲先生、共に亡くなられたアフガニスタンの方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。