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アフガニスタン、ダリー語について

心を寄せ続ける

primula

Photo MixによるPixabayからの画像

 

こんばんは。

今日は時間を作って、図書館に行ってきました。
(ああ、「昨日」の話になってしまいましたね・・・・・・今零時すぎです。)

お昼頃は少し雨が降っていて、とても爽やかな雨でした。
こんな雨もあるのですね。

雨と言っても、降る土地と季節によってさまざまですね。
ここでは少々の雨なら、鳥はさえずり続け、人も傘をささずに雨を纏って歩いています。


今日行った図書館には、アフガニスタン関連の本が100冊以上所蔵されていました。
読んだ中で、特に良かった本を2冊紹介します。

 

児童書 『アフガニスタン (目で見る世界の国々) 』

 

1冊は、児童書のコーナーにあったアフガニスタンの本『アフガニスタン (目で見る世界の国々) 』(メアリー・M. ロジャース著)です。

 

アフガニスタン (目で見る世界の国々)

アフガニスタン (目で見る世界の国々)

 


児童書と侮る事なかれ。大人にもお勧めです。

内容は非常に分かりやすく、全体が網羅されています。
国土(地形、動植物、気候など)、歴史と政治、文化(民族、言語、芸術、娯楽など)、経済(農業、鉱業、林業、工業など)など多岐に渡ります。

この本では、ブズカシも、民族舞踊のアタンも、伝統的なご飯のパラウも紹介されていました。

写真と図が多用されているので、イメージがしやすいです。短時間で読めます。
今まで読んだアフガニスタン関連の書籍の中で、最初に読む本として、こちらをお勧めしたいです。(10年以上前の情報なので、改訂版を希望したいところです。)

 

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』

 

2冊目は、イランの映画監督モフセン・マフマルバフ氏の著書です。

 

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ

  • 作者: モフセンマフマルバフ,Mohsen Makhmalbaf,武井みゆき,渡部良子
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
  • 発売日: 2001/11/01
  • メディア: 単行本
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映画『サイクリスト』(بايسيكلران) 、『カンダハール(سفر قندهار) の監督でご存じの方も多いのではないでしょうか。残念ながら私はまだ『サイクリスト』を観ていません。
なかなかレンタルショップにも置いていないのですが、いつか観てみたいです。

 

監督はこの本の中で、アフガニスタンが直面している状況には、アフガニスタンの国と、その人々に対する世界の無関心、無知があると指摘しています。


確かにそうです。
アフガニスタンに関心を持ち続ける、心を寄せることができれば、ほんのわずかであっても何かが変わる可能性があるのかもしれません。

こうしてご縁があってダリー語を学んでいるからこそ、少しでも何かできたらという気持ちになります。アフガニスタンの人びとに心を寄せて自分なりに行動してはいるものの、当然ながら自分が出来ることはあまりにも拙くささやかなことばかり。

 
同書(2001年)で、監督は次のとおり述べています。

そして、『カンダハール』の製作を終えた今、私もまた、自分の仕事に無力感を感じている。私は、レポートや映画という小さな知識の炎で、人類の無知の深い海を照らすことができるなどとは信じていない。今後50年間にわたり、ばらまかれた地雷によって人びとが手足を失うことが定められている国を、19歳のイギリス人少女(※)が救えるなどとは信じていない。では、なぜその少女は、アフガニスタンに行くのか。なぜカマール・ホセイン博士は、希望がないにもかかわらず、いまだに国連にレポートを送りつづけているのか。なぜ私は、あんな映画を撮ったのか、そしてこんなレポートを書いているのか。私にはわからない。だが、パスカルの言葉を借りれば、心は理性が知らない動機を持っているのだ。

(『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』127-128ページからの引用)(※国際組織で義手や義足を作っている、イギリス出身の少女。脚注は引用者によるもの。)

 

そんな絶望的な無力感を覚えつつも、本当にささやかで、大海の一滴にすぎませんが、行動しつづけてみたい。決して、善意の押しつけにならない形で協力していけたらと思います。

 

皆さんは、自分が苦しい状況に置かれたとき、周りの人にどうしてもらいたいですか。

状況や相手との関係によっても違うと思いますが、「あなたのことを見守っているよ」とサインを出してくれるだけで、どんなにか心の支えになるかと思います。
少なくとも私はそうです。

具体的な助けがなくても、そばにいてくれるだけでも嬉しい。
それって、1対1の人間関係でも、1対集団になっても、そんなに違わないのかもしれません。 

もちろん、食べ物に事欠く人には、食べ物。病気の人には治療が必要です。
その後、最低限の基本的な生活が送れるようになったときに、心を寄せているというメッセージ(と行動)が活きてくるのかなと思います。

私自身、これまでにそういうメッセージを実際にいただいたことが何度かあるのですが、そういうときに身体がフワッと軽くなったというか、とても安心したのを覚えています。

うまく纏められませんが、そういう「目に見えないもの」は誰からも奪われないし、皆で増やして育てていくことができるのだと思っています。